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イラク戦争の15年を語る その① バグダッドのパレスチナ人

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戦争が始まった時のこと 

突然、爆音と銃声が聞こえて始まりました。その当時私は、印刷会社のガードをやっていたんです。2-3日は全く、動けなかった。水も飲めない状況でした。
4月になると、アメリカ軍の戦車がやってきて撃ち始めました。動くこともできなかった。朝の4時を過ぎて少し明るくなって外の様子を見れた。6時過ぎに外に出てみると、米軍の車に子どもたちが群がっていました。12時過ぎに、息子のサイードが20kmほど歩いて食料を届けてくれました。

 アメリカ軍は、パレスチナ人はサダムの忠実な支持者だと思っていたので、パレスチナ居住区を片っ端から捜索したのです。

 戦争は怖かったが、アメリカがきたことは、新しいシステムを持ちこんでくれる。民主主義が来て、仕事も来ると思いました。
しかし、結局、イラクは、武装勢力であふれ、政府なんかなくなってしまった。
タクシーも動きはじめたので、働いていた会社からようやく家に戻れる時に、みんな、いろんなものを盗んで持って帰る。なんだこれはと。警察も機能しなくなると、やりたい放題。病院ですら襲われて、ベッドにいろんなものを積んで盗んでいくんですよ。

宗派対立の激化

 2005年には、みんな、『サダムがよかった!』って言いだした。
サマワでモスクが爆破されると、バグダッドでもあちこちでモスクの爆破が起きた。
病院に薬を届けに行った時にいきなり通りには誰もいなくなって、撃ちあいがはじまったんです。私は、息子とともかく逃げ回りました。

 その当時は200人の聖職者が殺された。
イランからの勢力も入ってきて、イランイラク戦争で、イランを攻撃したイラク軍のパイロットを探し出して殺していった。宗派対立だけではなくいろんな暴力があふれていた。

パレスチナ人に対する迫害

 イラクには、パレスチナ難民と、シリア難民もいましたが、サダムフセインは手厚く扱ってくれた。特に、イスラエルで殉死した人たちにはお金を配った。
そのことは、シーア派の人たちは快く思ってなかった。(イランだってイスラエルを敵視しているのに?) 政治信条には関係なくお金に嫉妬した。サダムがいなくなったら、彼らが襲ってきたんです。
私の娘婿も撃たれました。傷が見つかると、アメリカは彼を戦闘員だと思うから、ヨルダンに行かせようとして国境まで逃げた。
しかし、ヨルダンは頑なに難民を受け入れなかった。
 その後、UNHCRがパレスチナ人の登録を始めて、支援を開始するというので、娘たちも戻ってきて、支援を受けるようになりました。900ドルもらえるというので。その時の900ドルは結構なお金でした。
 しかし、2005年に宗派対立が激化するとパレスチナ人の迫害は、激しくなり、合計で1600人は殺されました。
それで、パレスチナ人たちは、今度はシリアの国境に逃げた。UNHCRが調整して、ブラジルやアメリカに移住しました。
かつて45,000人ほどいたパレスチナ人も3,000人に減りました。
パレスチナ人が住むスペースはもうイラクにはないのです。

この15年間で学んだことは何でしょう?

力にはついていくものだということです。平和的なやり方が得るものが多いということ。
パレスチナの歴史を見てもそれは明らかです。イスラエルと力で戦ってどれだけ私たちが失ってしまったか。
 そして、いかに、パレスチナ人が、国際社会、そしてアラブ社会からも見放されてきたかということ。皆、アメリカとイスラエルのために動く。
私のような、年寄りはこの地で果てるしかないが、次の世代は、それぞれの国の市民として幸せに暮らしてほしい。
そのためにも、パレスチナ人が、テロリストといわれないように、子ども達を教育していくことが重要だと思います。

【アブ・サイード】
両親がハイファ出身のパレスチナ人。イスラエル建国で国を追われ難民に。アブ・サイードはその直後にバグダッドで生まれる。イラク戦争では、NGOや、メディアの取材に協力。サマワにも同行した。その後JIM-NETのスタッフに。

 

 

 

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